肺がんBookvol.4から

インタビュー記事 岸本伸之さん(前編)

みなさんこんばんは!

昨年秋に発行した「肺がんBook VOl.4」

こちらの特集記事の、3名の方へのインタビューを改めてご紹介します。

今回ご紹介するのは、岸本伸之さんです。

インタビュー、写真は木口マリさんです。


 

●「病を誇りに変える人」インタビュー①

●島根県がん対策推進室嘱託職員
  岸本伸之さん(54歳)

●「自分で動くと物事は変わっていく」


●治療・活動歴
2006年2月(40歳)    胃がんが見つかったが、手術後完治
2015年6月(49歳)    肺がんが見つかる(腺がん・副腎転移あり)
ステージ4、手術不可
EGFR遺伝子やALK遺伝子の変異なし
2015年7月?        抗がん剤(シスプラチン・アリムタ)の2剤を4クール(その後、バリ島へ旅行)
2015年11月?(50歳)    抗がん剤を1種類(アリムタ)に変更
2017年6月?(51歳)    免疫チェックポイント阻害薬(オプジーボ)に変更
2017年12月(52歳)    職場復帰        
2018年1月?        抗がん剤・分子標的薬(ドセタキセル・サイラムザ)の2剤に変更
2018年8月?(53歳)    免疫チェックポイント阻害薬(テセントリク)に変更
2019年1月?        しばらく休薬・遺伝子検査を受ける
2019年3月        消防署を退職し、島根県がん対策推進室の嘱託職員に
2019年5月?8月        再度、免疫チェックポイント阻害薬(テセントリク)を使用
2019年10月        ハイブリッドVATSでの右肺下葉切除手術が決定したが、骨転移が見つかり中止
            再度、遺伝子検査のための生検を行う
2019年11月        抗がん剤(カルボプラチン・アリムタ)と、分子標的薬(アバスチン)を使用


●島根県の消防士として勤務していた岸本さんが、肺がんステージ4と診断されたのは49歳のとき。患者会との出会いから病気の知識を得て、退職後は夢を追おうと思いつつも県のがん対策推進室で勤務することに! 「自分で動くと物事は変わる」と語る、岸本伸之さんと妻の雅子さんにお話をうかがいました。

●肺がんステージ4の告知
  意外と娘は強かった!
 


―がんが見つかったのはいつですか。

 

岸本:2015年6月、49歳のときに肺腺がんステージ4との診断を受けました。副腎に転移あり。EGFRやALKの遺伝子変異はありません。

 

 

―何か兆候はありましたか。

 

岸本:4月にインフルエンザにかかったんです。「一度もかかったことがないのに、おかしいな」と思いました。そのころは、現場から119番通報を受ける司令センターの内勤に移ってしばらくしたころ。「体力が落ちている。じゃあ、ランニングして鍛えよう」と思いました。

 

 

―「病気かな」ではなく運動不足だと(笑)。

 

岸本:僕、すぐそっちにいっちゃうんです。でも走るとすぐ息切れがしてしまう。やはりおかしいなと思いました。そんなとき、1週間で3度、夜中に腹痛がおきました。実は、2006年に胃がんで胃の2分の1を切除しているんです。そのための胆のう炎かなと思い、かかりつけの医師のところへ行きました。

 

医師は、「腹痛は胆のう炎だと思うけれど、肝臓のあたりに気になる影がある」とのこと。総合病院へ移りCTを受けると、「肺に6cmくらいの腫瘍がある。おそらく肺がんだろう」と言われました。
 

 

―そのときのお気持ちは。

 

岸本:またか、と思いました。まだ確定診断ではなかったので、「間違いであってほしいな。大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせていました。

 

 

―奥様はどう思われましたか。

 

雅子:胃がんのときの経験があったので「手術をすれば治る」と思っていました。でも、「手術はできない」と言われて。その意味がよくわかりませんでした。

―お子さんにはどう伝えましたか。

 

岸本:娘は、当時18歳。ちょうど短大に入って家を出たばかりでした。これから楽しい時間になるというのに、言えないなと思いました。伝えたのは夏休みに帰省してきたとき。「実は、肺にがんができた。だけど胃がんのときと同じように、大丈夫だから」と。

娘は涙ながらに「わかった」と答えました。でもそのあとはコロッと忘れて鼻歌(笑)。たくましくて、逆にそれはホッとしましたね。でもそのあと、自分でいろいろとネット検索していたみたいです。

雅子:娘に「お父さん、死んでしまうのかな」と言われたこともありました。私は、「多分、死なんでしょう。大丈夫」と答えました。マイナスなことは言わなかったと思います。

 

 

●休職は2年半
  治療開始前からゆっくりと

 

 

―治療はどのように行いましたか。

 

岸本:2種類の抗がん剤(シスプラチン・アリムタ)を入院で4クール(4回)。次に単剤(1種類・アリムタ)に変更して3週間に1度、通院で行いました。それはけっこう効いて1年半くらいやっていたのですが、副作用で体がしんどくなってきて「休薬したい」と医師に相談しました。

緩和ケアと呼吸器科の医師と3人で話し合い、もう一度きちんと検査をしてから、どうするかを決めることになりました。PET検査と脳MRI検査の結果は、「転移はしていないけれど、やはり大きくなってきている」とのこと。緩和ケアの医師からは、「絶対に治療を続けた方がいい」と言われました。

ちょうど「免疫チェックポイント阻害薬」という新しい種類の薬が出たころだったので、使ってみることにしました(オプジーボ)。だるくなる副作用はあったものの、以前の薬よりもだいぶ楽になりました。

 

 

―その間、お仕事はどうされましたか。

 

岸本:CT検査で肺に影が見つかったときから、仕事は休むことにしました。消防士の仕事はとても誇りに思っていたけれど、人の生死に直結するため精神的に厳しいんです。胃がんのときに無理をしてしまったという記憶もありました。最初は有給休暇を使い、その後に病気休暇。さらに1年半は傷病手当をもらいつつ休職しました。ほんとゆっくり。

 

 

―職場復帰されたのはいつですか。

 

岸本:2年半休んで、2017年12月から復帰しました。現場や司令センターではなく事務職で。ところが年明けには、副腎に転移した腫瘍は小さくなっていたけれど、右肺下葉にできた原発(最初にできた)のがんと、同じ肺葉の中で転移巣ができてしまいました。オプジーボは、もう効かなくなったことがわかりました。

 

 

―次の治療はどのように。

 

岸本:最初に使ったものとは別の抗がん剤(ドセタキセル)と、分子標的薬(サイラムザ)の2剤です。一度目の投薬は3週間の入院が必要で、想定外に有給休暇を使ってしまいました。

 

 

―副作用はどうでしたか。

 

地味にきつかったですね。だるさや鼻血があり、髪は抜けるし爪も変形するし。口内炎で食べられないし。

雅子:このころが一番辛そうに見えました。でも、そういうときに限ってカレーを食べたがって。カレーに固執しとったよね。

岸本:全然食べられないけど、カレーが食べたい(笑)。
 

 

―見た目の変化はいかがでしたか。

 

岸本:すべての体毛が抜けて、鏡を見たらマジでびっくりしました。娘には、「この、つるっぱげ?!」と言って、パチーンとやられました(笑)。

眉毛もなくなったんですが、看護師さんが「4Bの鉛筆で描くといい」と教えてくれました。抜ける前に写真を撮っておいて、点で位置をつけていくといいそうです。
 

 

 

●「これからは、自分らしく好きなように生きよう」


―仕事と治療の両立は大変だったのではないでしょうか。

 

岸本:副作用が辛かった。有給はだいぶ使ってしまったし、病気休暇を再度取るためには1年間の勤務が必要です。休職はできるけれど給料や疾病手当は出ず、その期間を消費すればあとは退職しかない。職場に相談したところ、いろいろと考えてくれて、勤務期間満了を待たずに半年間の病気休暇をいただけることになりました。
 

 

―その後はどうされたのですか。

 

岸本:さすがに半年で治る病気ではないし、退職することにしました。消防士になってから、ちょうど30年だったんです。昔からやりたかったこともあって、「これからは、自分らしく好きなように生きよう」と思いました。

不安はありますが、スパッと思い切って区切りをつけようかなと。それで辞めてみたら、楽になりました。どうなるかわからないこの先が、ちょっと楽しいみたいな。妻に「辞めるで」と伝えたら、「よかったがね」と言われましたね(笑)。
 

 

―ちなみに、「やりたいこと」とは何ですか。

 

岸本:世界を旅したいと思っていたんです。3週間おきに帰ってきて、治療を受けてからまたどこかへ行ってという話を妻としていました。それと、以前から小さなコーヒー屋さんをやりたかった。雑貨も少し置いたりして。病気になってからは、患者さんがフラッと寄れるお店ができたらいいなと思うようになりました。

(写真・文:木口マリ/一部写真:岸本さん提供)