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がんと仕事の両立① Aさんの場合

みなさんこんにちは。イチローの引退会見、言葉がすごかったです。ふとした時に思い出します。長い特集モノはやくやらないかなと思うばかり。

 

さて、2019年1月26日のおしゃべり会では「がんと就労の両立」をテーマに

患者さんに登壇してお話をして頂きました。

 

患者であっても生活があり、生きていくためにはお金が必要です。

よほどのお金持ちでない限り、仕事をしないと生活できないし、治療もできないです。

 

それぞれ立場や環境の違いがあると思います。

皆さん、仕事と治療をどう両立させているのでしょうか。

登壇していただいた患者さんのお話をアップしますので、読んでください。

 

では、がんと仕事の両立① Aさんのお話です。

 

 

 


Aさん

ご紹介いただきましたAです。この「がんと就労の両立」というテーマを企画した1人です。
現在、がんの診断を受けて約1年半、最初の4カ月ほど休職して、復職をしています。診断、治療開始時は当然のことですが、やはり、この復職のタイミング、復職後の様々な場面で色んな気持ちの変化があり、モヤモヤすることも多く、過ごしてきています。患者本人の私もそうですが周囲の人たちのがんやがん治療に関する知識や理解もまだまだ浅く、肺がんステージ4で仕事を普通にできるということに頭が追い付いていないのが実態かと思います。そんな中、実際にどんな風に右往左往してきたのか、今日は皆さんと共有できたらうれしいです。    
 

まず自己紹介です。
現在年齢は43歳、罹患時41歳でした。スポーツは中学から大学までバレーボールをしていました。家族構成は妻が1人に子供が3人で上から中3の娘、中1の息子、年長の娘です。職業は専門商社に勤める会社員で、勤続20年間の大半、プラスチックの販売部隊に所属しています。

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スライドの右上の写真はがん診断3日後に香港ディズニーランドにて、当時、暫定ラストかもと思って撮った家族写真です。後ほど説明しますが、罹患時は中国のシンセンという香港の隣に位置する都市に家族で駐在しており、まだ遊びに行けてなかった香港ディズニーに帰国直前に無理やり駆け込んで遊びに行き、息切れして相当苦しい思いをして回ったという記憶です。
     
 ここからがん罹患時の状況を説明します。
罹患時の勤務地は先ほどお話しした中国のシンセンでこの右上の写真がその街並みです。
仕事で中国に絡みがない方は全く馴染みのない知名度の低い都市ですが、この通り高層ビルだらけの非常に発展した大都市です。少し前までは日系企業も挙って進出していた工場だらけの町だったのですが、今では中国のIT企業や金融企業が立ち並び、赤いシリコーンバレーと言われている非常に住みやすい都市です。

 

ここに家族帯同で住み始めて、1年くらい経ったあたりで異常に息切れしたり、咳が出て止まらず、やけに身体が怠い症状が続いていました。体重も自然に5㎏程落ちていたのですが、仕事もトラブル続きで結構ハードだったので、あまり深く考えず、逆に身体が勝手に絞れてええ感じの体形!とか言ってアホみたいに喜んでいた記憶があります。

 

そんな中、日本出張で長野に行った時に、やはり長野といえば蕎麦!ということで有名そうな店を探して食べに行ったのですが、蕎麦が全くすすれなかったのです。何やこれ?と思いつつも仕事があったので、とりあえず慣れない女の子食い?で苦労しながら食べて、いよいよおかしいな、中国戻ったら病院行くか。と思いながら、何故か日本で病院に行かず、わざわざ中国に戻ってから、17年6月末に近くのクリニックを受診しました。

 

以前にも腰が痛いときや咳が酷いときに受診歴があった会社近くのクリニックで、馴染みの医師に症状を話し、レントゲンを撮影。すると左肺が1/4しか映っておらず、「これは胸水っていう水が溜まってる可能性が高いけどここでは何もできないし、大きな病院行って~。」と言われ、近くの北京大学シンセン病院に。

 

診察の結果、入院して精密検査が必要とのことだったのですが、生憎満床。このあたりは「The China」という感じで、「いつになるかわからないけど、家で待ってて~」と言われる始末でした。そうこうしている間にも息苦しさが増していたので、いたたまれずその足でイミグレを超え、2時間かけて香港の病院に行きました。

 

そこで事情を話すと、即入院して処置をするということで、その日の午前中に会社を抜け出したスーツ姿のまま入院することに。「胸水が溜まっているから、まず抜きましょう!」ということで胸水を抜き、数時間後には「Most likely cancer..(恐らくがんやわ)」とあっさりプチ告知を受けました。いきなりのがん告知とあまりにもあっさりとした展開にショックというよりも放心状態でした。

 

数日後、諸々の精密検査の結果が出て、「肺がんステージ4確定です」「治療がうまくいかないケースは余命3~6ヵ月も考えられる」との本チャンの告知でした。会社には事実をそのまま伝えると、本社に報告が入り、即帰国命令を受けました。

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その後、状態が落ち着くまで約1週間入院し、敢え無く帰国した訳ですが、帰国する前日に家族で駆け込みでディズニーに遊びに行った際の暫定ラスト家族写真が先ほどの自己紹介のページの写真です。この時既に妻から子供たち全員に病気のことは伝えていました。

     
前段が長くなりましたが、ここからががん罹患後、復職までのお話です。
2017年7月中旬に帰国をし、そのまま会社が予約を取っていてくれた東京の某病院に行きました。一応、海外での診断ということだったので、誤診の可能性があるかも、と一縷の望みも持って改めてセカンドピニオンを受けようと、香港での精密検査結果をもって受診したのですが、「間違いない、疑いようのない肺がんです」と撃沈。受け入れざるを得ない感じでした。

 

まあ実際、香港の病院を退院して3日経っており、また胸水がたっぷり溜まって、息も苦しかったので、大人しくそのまま入院。再度検査したり、胸膜癒着術の影響で高熱が続いたりで2週間程は容態を改善させる為の期間だったのですが、その間にどこの場所(エリア)で治療しますか?どこの病院で治療しますか?どういう治療を希望しますか?と、立て続けにいろんな決断を医師から迫られて、非常に困惑したという記憶があります。

 

とりあえず41歳でしたから、がんのことって、まだまだ他人事でやっぱりほとんど知らないんですよね。がん治療っていったら一般的な抗がん剤ですごく苦しいようなイメージ、もしくは放射線ぐらいしかイメージがない中で、治療方法をどうしますか?と言われても、という感じでした。

 

先ほども言ったように、子どもはまだ、下は年長で3人いて、今からまだまだ養っていかないといけないので、基本的には、いかに仕事を続けるかというところを前提条件としていろんな決断をしていきました。

 

そういうわけで、まずは治療場所なのですが、実家は滋賀なので、会社からは滋賀に帰って治療してもええよとも言われていました。治療をしたい場所を選んだら、そこに合った辞令を出すっていう感じで有難いことに会社からは言ってもらいました。だけどやっぱり確実に仕事に復帰して元通りの仕事をするという目標を持っていたので、自分の出身部署だったり今後のことを考えて、東京で治療すると決めました。

 

病院はまたイチから受診するもの大変だし、当てがある訳でもなかったので転院はせず。治療については、初めの頃はがん治療のことが本当にわかっていなかったので、気持ち悪いからやっぱりスパッと肺を切ってほしいと思って、ずっと切ってほしい、切ってほしいって呼吸器内科の主治医に言ってました。

 

この状態で手術をする外科医は全国どこを探してもいないと言われ、また漸くいろんなもんを調べて、手術を諦め、薬でとりあえず治療するという結論を出しました。というか元々薬一択だったのですが。。。

 

で、仕事に復帰した時も通院で無理なく治療が継続できる方法を選択したいという希望を出し、このレジュメに書いている、一次治療「タルセバとアバスチンの併用療法」をスタートしました。

 

通院治療はいいのですが、しばらく悲惨な生活をしてました。東京に家がなかったんで、とりあえず病院近くのウィークリーマンションに入り、治療スタートしながら家を探すという生活でした。

 

仕事を離れ1ヵ月ちょっと経ち、どんどん社会との接点がなくなっていくので、すごく不安だったのと、この先治療は上手くいくのか、人生はどうなるのかと悶々としながらの家探しでした。

 

子供たちは中国の学校が終わるタイミングで帰国し、愛知、京都、滋賀と親戚の家を転々としながらジプシーのような生活を送ってもらってました。そして漸く東京の住まいも決まり、約2カ月ぶりにやっと家族全員が揃っての生活が再スタートしました。

 

引越しも落ち着き、時間を弄んでいたこのタイミングで、ワンステップのおしゃべり会に初参加しました。すると、皆さんめっちゃ元気で笑顔だったので、「あれ、ステージ4でも別に生きれるんや!」って勇気付けられたのを覚えています。


会社とは10月に入ってから産業医と面談しました。体調もだいぶよくなっていたので、復職プランを会社のほうに立ててもらい、罹患、休職して4カ月目で復職を果たしました。

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復職から今までなんですけども、治療はタルセバ、アバスチンを継続しています。今でちょうど1年半。途中、副作用がきつくて1週間ぐらい休薬はしたんですけども、一次治療を続けています。

 

復職の第Ⅰ期、勤務方法としては短時間勤務を取らせてもらいました。朝45分、夕方45分をカットした形で、これはちょうど時間的には20%カットにあたるので給料も20%カット80%の給料をもらいながら、業務に就きました。

 

ただ業務は悲惨でした。新人社員がするような仕事しかさせてもらえなくて。まず、新聞の切り抜きですね。業界の、プラスチックに関係する業界の新聞がいくつかあるんですけど、関連するような記事を切ってメールで関係者に入れる。リハビリ勤務とは言え、プライドズタズタの仕事しかさせてもらえませんでした。上司からしても仕方なかったと思います。無理はさせられないし、どういう状態かもよくわからない、またいつ入院するような体調になるかもわからない中での復職だったので。


僕的にこの悲惨な仕事を2カ月ぐらい続け、復職Ⅱ期、ほんの少し勤務時間を延ばしてもらいました。体力的には全然大丈夫だったけど、やっぱり会社としては慎重に徐々に徐々にと言う方針でした。終業時間が定時までに伸び、勤務時間・給与共に10%カット。業務は少し頭も使うような企画的な内容も多少やらせてもらいました。気持ち的にはこの辺はですね、曖昧やけどまあまあって感じ。ちょっと可哀そうと周りから思われてるんやろうなって感じながら、やっぱり悶々として、働いていました。

 

私の会社は、ながらワーカーっていうか、がんと就労の両立に関する制度が全く整ってなかった。たまたま僕は年長の子どもがいたので育児支援の対象になるよということで、この辺の短時間勤務というのは無理やり育児支援制度を使った勤務体制になっていました。

 

その次、去年の4月から復職Ⅲ期なんですけども、更にもうちょっと働きたいということで、時間自体イレギュラーなんですけど、こんな感じです。勤務時間と共に給料もカットされるというのは私の上司は何とかしてやりたいと思ってくれて。だけど定時で働かすのはちょっとさすがに厳しいだろうということで、どういう方法がいいのかと考えてくださり、とりあえず朝のラッシュは避けれるように、10時出社は残し。8時から9時、1時間は在宅勤務をしろ(した雰囲気でいろ)と。勤務時間としては100%なので一応これで給料も100%出るかたちにしてもらいました。

 

もちろん今までは残業は完全禁止だったんですけども、去年の11月から、月20時間までだったら残業していいよということになってます。仕事内容も、Ⅰ期Ⅱ期の新人ちゃん仕事がようやく免除されて、部署の企画業務を任されるようになりました。

 

それなりに忙しいときと暇なときのバラつきがあるんですけど、忙しいときは残業をせざるを得ないというか、別に残業がしたいわけじゃないんですけども、仕事を終わらすためには、多少1時間、2時間でも残ってやりきらないと周りに負担がかかる。その中で残業禁止、残業禁止と言われると、逆に焦って精神的に良くなかったり、中途半端な状態で帰らないといけないのが余計ストレスになるということをずっと訴えていて、漸く月20時間までなら残業できる状態にしてもらいました。この間ずっと出張自体は禁止という条件付きです。

 

これらの勤務条件は完全にイレギュラーな特別扱いの勤務体系を認めてもらったことになっています。それぞれの条件見直しにあたり、もう嫌っていうぐらい産業医面談には出ています。基本的には毎月で、しばらく様子を見て問題なさそうだったら、次のステージに進むという繰り返しです。

 

あまりにも僕が身体は大丈夫、大丈夫とか言いすぎるし、もっと仕事やりたいっていうのが、何か変に産業医や健康相談室の人に映ったようで、余分にメンタルの産業医面談まで追加される始末。治療をしてるのにこいつは大丈夫か??? がん、ステージ4で、何か頭おかしなってんのちゃうかというふうに思われてたかもしれません。

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ここからはまとめです。罹患から復職、今の就労に至って、いろんな思うところ、気づきがあったんで、いくつかご紹介できればと思います。


まずは、どういった環境であれば両立が叶ったのかというところなんですけど、やっぱり周囲のがんやがん治療の進化に対する理解が必要かと。先ほど言いましたように、ステージ4でも体調が悪くなければ、普通に働けるんだということをやっぱり理解もしてもらう必要があるのかなということです。

 

ステージ4の人の働いている姿を目の前で見たり、近くで話を聞いたりしない方は、どうしてもやっぱ無理してるだろうというふうに見られてしまう。会うたびに「大丈夫か?」と、「無理するなよ!」という意味を込めて、挨拶する度に言われ、その返答自体が面倒臭いという状態です。

 

最初は気に掛けてもらって有難いな、と思っていましたが、毎度毎度言われるとシンドイですね。だからやっぱり周りがもっと、ステージ4でも普通に働ける状態に、今は治療が本当に進んでいることに理解が進むよう、もっと示していかないとだめだなと思っています。


どんな支えがあればありがたいかとかいうことなんですけども、同じですね。治療しながら働くための制度がない会社が、恐らく割合からするとほとんどなのかなと思います。

 

私の会社もある程度、人事制度や福利厚生関係は整ってる会社だと思ってたんですけども、そこのところは全くなかった。やっぱり今後、ながら従業員の支援制度っていうのは本当に必要になってくるだろうなと思います。

 

たまたま私の場合は、非常に周りの人に恵まれていました。役員から人事部長、上司、ほとんど知ってる人、仲良くしてもらっている先輩だったんですね。なので、本当によくしていただいた。無理も聞いてもらって、希望も全部聞いてもらって。すごく恵まれた状態で勤務ができてるんですけど、恐らくこれって、全員がそうではないんだろうなと思います。同じ会社にいても、同じフロアにいる人が同じステージ4のがんになってしまったら同じように働けるのかなと思うと、多分違うんだろうなと。

 

だから、こういった属人的な優遇された働き方じゃなくて、やっぱり一般化したルール作りっていうのは必要なんかなと思います。職場でのカミングアウトは、僕的にはしても問題なかったんですけど、たまたま直属の上司がサバイバーで。早期胃がんで手術して完治されているんですが、もちろんがんに対する理解は十分で逆に理解がありすぎて、すごく厳しい情報統制の中、復職しました。よってほとんどの人がなぜ僕が中国から急遽帰ってきて、しばらく休職して、こうやって復職しているのか知らない状態でした。聞かれたら答えるようにはしているのですが、それでもやっぱり事務所では5%ぐらい、会社内では50人ぐらいしかまだ知らない状態です。

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医師にどういうフォローがあればうれしいかなんですけども、やっぱり産業医との連携が欲しいと思います。より産業医と主治医との連携があれば、もっと産業医の理解が深まるし、凝り固まったガチガチの、何も話が通じないというか300%くらいの安全をみてくる産業医、今や大嫌いなんですけど。すみません悪口言って。


一同 (笑)

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Aさん

やっぱ思いとしては、分子標的薬やって体が動く間は、しっかり働きたいんですね。人並みに働きたいです。出張制限されてますけど、国内出張もしたいし、海外出張もする仕事はあるけどできない。キャリアもまだあきらめたくない。あわよくば、もう一回海外駐在もしたいという思いを持って働いてます。僕の復職に対する動機っていうのは、もう一回海外駐在をして、元通り人並みに働きたいという思いです。これを目標に置いて、今、治療しながら働いてます。
以上です。

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