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肺がんBOOK vol.3

いのちの落語家・樋口強さん(65)

みなさま~
 
一年に一度出る肺がんBOOK出ました~10月初めには、がん拠点病院に並んでいました。。。
すみません。連絡遅くなりました。
 
今日は、その中から
 
いのちの落語家・樋口強さん(65)
“生きるはずのないがん”に出会った落語家の「笑いのちから」(1)
 
をお送りします。

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「笑ってみると、すごく大変だと思っていたことが小さく思えた」――。
 
 
 

 43歳の若さで、“3年生存率5%”という厳しい現実に向き合うこととなった樋口強さん。過酷な治療の中で、ふと心に浮かんだのは「笑いは最高の抗がん剤」という言葉でした。がんの体験から、どのようにしてそのような思いが生まれたのでしょうか。

「生きたいという思い」「失って気付く当たり前に働ける幸せ」「リハビリのためじゃないリハビリ」。そして、「会社が、がん患者を雇うべき理由」とは!? 「読めばきっと笑顔になる」そんなインタビューです。
 
 

●43歳で、悪性度の高い「小細胞肺がん」に
 
 
 
―がんが見つかった時のことを教えてください。
 
 
私が肺がんになったのは、平成8年(1996)。今から22年前、43歳の時でした。その時は会社員で、毎年、会社の人間ドックを受けていたのですが、前年にはなかったこぶし大のものが肺に写っていました。自分で見ても深刻なものだということが分かりました。
 
 
―22年前だと、情報を得ることが難しかったのではないでしょうか。
 
 
当時はまだインターネットがなく、現在のように自分ですぐに情報を得られる時代ではありませんでした。大学病院で2週間の検査入院をすることになり、その間に研修医の先生が辞書となって、肺がんについていろいろと教えてくれたんです。

研修医さんにとっても、私は“生きたサンプル”のようなもの(笑)。夜になると私のところへやってきて、一緒に勉強していました。肺がんにはたくさんの種類があり、それによって治療法が違うことや、生存率が変わってくることも教わりました。
 
多分、私の肺がんは、扁平上皮がんという種類だろうと予想していました。当時も肺がんの治療は進んできていて、「がんは治る時代」と思っていました。だったら早く治して仕事に戻りたい、と。
 
 
―実際は、そういう訳にいかなかったと……。
 
 
検査結果が出て「肺がんです」と言われ、「分かってますから、早く治療をしてください」と返しました。しかし医師は、「ちょっと待ってください」と言うんです。「樋口さんの肺がんは、小細胞がんという種類です」とのことでした。
 
 
―小細胞がんは、進行が早く、悪性度の高いものですね。
 
 
研修医さんから小細胞がんについて聞いていて、私はそれではないと思っていました。「うわ〜、大変なところに入り込んでしまった」と、これは大きなショックでした。
 
 
 

●「3年生存率5%」――この先、生きて何がしたいのか
 
 
 
 
―どのような治療を行うことになったのでしょうか。
 
術前の抗がん剤治療、手術、術後の抗がん剤治療という流れでした。
術前の抗がん剤がよく効いて、がんはとても小さくなりました。それから手術を行い、続いて、まだ体に散らばっているがんを、できるだけたくさんの抗がん剤を使って追いかけよう、ということになりました。
 
しかし、術後にとても体力が落ちてしまったために、内科の医師は術後投与に反対しました。「今の体の状態では、抗がん剤自体にやられてしまう」と。
「このがんは、ほとんどの場合で再発します。その時にこの薬を使いましょう。今使ったら、耐性ができて、再発の時に使えなくなってしまう」とのことでした。
 
 
 
―それでも術後抗がん剤治療を受けようと思った背景には、どのような思いがあったのでしょうか。
 
 
その時の私のがんの状態では、3年生存率が5%程度。それを命の座標軸の中心に置いてみたら、細い道に立っている自分の姿が見えました。ちょっとでもよろけたら、暗くて深い溝に落ちてしまう。まっすぐ行っても、その先には命の明かりは見えない……。
その中で、「自分はこの先、生きて何がしたいのだろう」と考えました。

これまでの私は、仕事が中心の毎日でした。それは楽しかったし、間違っていたとは思いません。だけど、今、どうしたいのかと考えた時に「やっぱり、家に帰りたい」と思ったんです。
「家があって、初めて自分の人生がある」「生きよう、生きたい」と思いました。
「そう思っている以上、がんに対して背中を見せるわけにはいかない。背中を見せたら、きっと捕まってしまう」
背中を見せるとは、逃げるということです。「家族と一緒に生きていくためには、中央突破をしよう。そのためには、抗がん剤しかない」と思いました。
 
 
 
―再発時の治療に対する不安はありませんでしたか。
 
 
もし、再発した時にこの薬が使えないのなら、それはそれでいいと思いました。自分でやろうと思ったことをやったなら、それでいい、と。家内とも相談して、その道で行くことに決めました。
 
 
 
 
●朦朧とした意識の中で見つけた“笑い”のちから
 
 
 
 
―「笑いは最高の抗がん剤」という言葉が生まれたのには、どんなきっかけがあったのでしょうか。
 
抗がん剤の副作用で苦しんでいるさなかに、この言葉が浮かびました。
副作用は薬を使えば使うほどひどくなって、睡眠剤を使っても眠れず、食べることもできない。それが何日も続いていました。
 
そんなある日、意識が朦朧(もうろう)とする中で、自分が落語をしている姿が見えたんです。かつて上野にあった、本牧亭での高座でした。
 
「面白い落語だなあ、輝いてるなあ、のってるなあ、絶頂なんだなあ!」と思いました。その時、がんになってから初めて笑ったんです。
笑って、ふと我に返りました。
真っ暗な夜の病室で、急に気持ちが軽くなった。ストーンと楽になったんです。「すごく大変だ」と思っていたことが、小さく思えました。
「あ、これだよ! これが、自分の気持ちを元気にしてくれる。笑うことで、張り詰めていたものが解けていくんだ!」
 
その時にフッと浮かんだのが「笑いは最高の抗がん剤」という言葉でした。
 
そして、今までも自分には落語があったのに、その使い方を知らなかったと気付きました。上手くなろう、人を笑わせよう、ということが目的になっていて、「自分がこれで輝こう」と思っていなかった。落語に後押ししてもらえたら、気持ちが楽になれると思いました。
 
 
 
―お話をうかがって、心が爽やかになってきたところですが、まだまだ、樋口さんのがん治療からの日々は続きます。「『ありがとう』と言われるリハビリ」、そして、「会社でがん患者を雇うべき理由」などなど! 読むだけで、きっと、元気が出ます。つづく。

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