ザ・インタビュー「万里一空」田中勇さん・その1 (肺がんBOOKロングバージョン)
みなさん こんにちは
肺がん患者の会 ワンステップ!がお送りする企画モノ。
ザ・インタビュー「万里一空」と題して、患者さんの体験を聞いていくコーナーです。万里一空とは…遠く離れたところにいても空は一つで、つながっていること意味しています。
このコーナーではさまざまな肺がん患者さんが登場し、その貴重な経験をお伝えしていきますよ。
今回は「ステージⅣから完治!生涯のパートナーと出会い、ブックカフェをオープン!? 盛りだくさんすぎる肺がん体験者」 田中 勇さん(56)の登場です!
「働き盛りの49歳、腰も痛くなるよね」——そんな兆候から数ヶ月後、田中さんが医師から告げられたのは、「肺がんステージⅣ」。しかも、進行が速く、転移も起こりやすいとされる「小細胞肺がん」。誰もと同じように揺れ動き、時には医師とぶつかりつつも、完治までこぎつけたという田中さんが、ある日、心に抱いたのは『生かされている』という思いでした。——果たしてそのココロは?
●<病歴>
2010年
5月 人間ドックで異常なし
7月 腰から背中にかけて痛み
9月1日 背中に激痛、血痰
9月14日 限局型小細胞肺がんステージⅢa
9月29日 進展型小細胞肺がんステージⅣ
9月30日 シスプラチン+エトポシド4クール開始
3クール目より放射線治療18回(当初は25回を予定)
シスプラチン+エトポシド2クール追加
2011年
3月中旬 治療終了
鬱(うつ)になり、旅に出る
2015年 9月 完治!……しかし新たなる宣告が
2016年 11月 高校の後輩 邦子さんと再会
2017年
8月7日 ブックカフェ栞日(しおりび)オープン
9月24日 肺がん患者会「ライオンハート(予定)」第1回目を開催
●突然のがん発覚!——「先生、一緒に闘ってくれますか?」
—がんが見つかった時のことを教えてください。
2010年7月、腰から背中にかけて痛みがありました。でも、その時は「寝違えた」くらいにしか思っていなくて。9月1日に激痛が起き、血痰もあったため、内科と整形外科のある病院を受診しました。
医師に「何割くらいの可能性でがんですか?」と聞いたら「7〜8割」とのこと。はっきりした結果が出るまでの数日間は、徐々にそっちの方へ気持ちを持って行こうとしました。でもダメでしたね。
結果は「限局型小細胞肺がんステージⅢa」。9月14日のことでした。一般に言われるような「何か悪いことしたかな」とか「なんで俺だけ」ということを思いました。
治療は、東京より空気がきれいで自分の家もある岡山で行おうと考えていました。半月後、岡山で再度、生検を行った結果は「進展型小細胞肺がんステージⅣ」。実は、がん発覚の4ヶ月前に行った人間ドックでは「異常なし」だったんです。
—人間ドック「異常なし」のワケは?
それほど、がんの足が速かったのだろうと思います。たった半月でステージⅢaからⅣになってしまうくらいですから。「なっているものは仕方ないし、それをどうにかするしかない」と思いました。それに、ステージⅣといってもいろいろなところに転移したのではなく、転移したてだったんです。そこで見つかってよかったなと思っています。
また、ステージⅢaの時は治験を勧められていました。今なら治験がどんなものかを知っていますが、その時は告知されたばかりだし、何も知らなければ怖いじゃないですか。ステージⅣになったおかげで治験の枠から外されて「ああ、よかった」と思ったりして(笑)。
—医師との付き合いは?
岡山の大学病院で主治医に初めてお会いした時、僕の第一声は「一緒に闘ってくれる医師を探しているんです。先生は闘ってくれますか?」でした。尖った患者でしょ(笑)。でもその気合いが伝わったのだと思います。先生は、「闘う」と言ってくれました。
そんな感じで主治医と派長が合い、治療が始まりました。化学療法を4クールと、放射線治療です。ところが、放射線治療について、事前にきちんとした説明をしてくれていなかったことがあったんです。
「照射量が通常より多く、放射線科では一度断ったけれど、『病棟が責任を持つ』と言って始められた」ということを、主治医ではなく放射線科から聞きました。主治医からは「放射線をたくさん当てるから、がんばれよ」くらいしか聞いていなくて。
「なんで言ってくれなかったんだろう」と、「でも一緒に闘うと言ってくれたし」という思いのせめぎ合いです。そんな時に胸がめちゃくちゃ痛くなりました。心膜炎にかかってしまったんです。
治療は「気持ちが大事」だと思っています。納得できていれば「なにくそ」と思えるのだけど、不信感があるとそう思えない部分ができてしまう。そんな時の心膜炎だったため、自分の体と相談し、残り7回の放射線治療を自分の意思で中止することにしました。
—え!治療を自分で止めちゃったんですか!?
そうなんです。すると主治医は「放射線治療を止めたら絶対再発する、なぜそれを選ぶんだ」と。それに対し、僕は「絶対治すとは言わないのに、なぜ絶対再発すると言えるんだ」と言いました。
しかし、次の回診の時、主治医が謝ってきてくれました。
「田中さん、ごめん。学生には『病気を見ずに患者を見ろ』と教えているのに、あの時はあなたを見ずに病気を見ていた」。
——その言葉に、リスペクトしかけました。まだ不信感が払拭されていなかったので、あくまで“しかけた”だけですけど(笑)。そして、主治医は、放射線を止めて抗がん剤2クールの追加を提案してくれました。「先生から代替案を持ってきてくれたことだし、きついけどがんばろう」と思いました。
—そして、完治したと。
もう7年が経っています。小細胞肺がんは再発・転移することが多いのですが、そうならずにきているのはすごくありがたいです。
●さらなる浮き沈みが人生の転機に!鬱、再告知、パートナーとの出会いを経て、ブックカフェをオープン
—それからは順調に?
ところが、治療後に鬱(うつ)になってしまいました。治療が終了して一旦は喜んでいたのですが、「再発・転移が怖い」というのがずっと心にあったんです。すぐに仕事を再開したこともあり、体が悲鳴をあげていました。
そんな時、主治医が「一生懸命やりすぎだ。会社を休め」と言ってくれました。そこで1ヶ月くらい休職し、旅に出ました。
—旅、ですか??
「帰りたくなるまで帰るまい」という旅。普通なら、すごく素敵でしょう(笑)。でもその時は、何を見ても感動しなかった。いつもなら「眼鏡橋ってすごいなあ」とか、感動するのに、何も感じない自分がいました。それが余計に怖くて。
そこでひとつの転機が訪れました。山口県の、あるお寺でボーッとお茶を飲んでいた時のことです。フッと、「自分は、生かされているんだ」という思いが浮かびました。
そうしたら途端に楽になったんです。それまでは、「生きよう、生きよう」としていたから、窮屈になっていたのだと思います。起こるかどうかわからない再発を怖がって窮屈に生きるよりは、“生かされている理由”を探す方がいいなと思いました。何となく、テーマを与えられた気がしました。
それから、仲間が亡くなった時の考え方も変わりました。以前は、周りの人が亡くなると落ち込んでいたんです。今も、もちろん落ち込みはするのだけど、「亡くなった人からバトンを受け取った」と感じています。「自分がバトンを持っている間は持っていなくてはいけないし、生かされている使命なのだろう。渡すべき時がくれば渡すのだろうし、それまでの間は持っていればいいや」と。
—そして、ひとつの節目と言われる5年が経過したと。
そう。でも、そこでも衝撃発表があったんです。
主治医から、「おめでとう、5年経ってよかった」に続いて、「でもあなたには放射線をいっぱい当てたから、二次がんにかかりやすい」と言われました。「ここから先、5年生きる可能性は4割だ」って……。
—え!それも主治医から事前にお話がなかったのですか!?
ハイ。ありませんでした(笑)。
「明日からは、がんになる前のようにバリバリ働こう」と思っていたところで、新たな告知を受けたような気分でした。
全力疾走以上のことをしていかなければならないのに、全力疾走もできない状況です。「このまま会社にいていいのだろうか」——。
そこで思ったのは、「会社は自分がいなくても回るし、それなら“自分がいなければできないこと”をしていこう」ということでした。
—それも転機になったんですね。
がんになった人が集まれる場所、そして、僕を見て「がんになっても治るんだ」と思ってもらえることを何かできないだろうかと思いました。そして、1ヶ月以内に会社へ退職の話を持ちかけ、3ヶ月後には辞めました。
そうしたら五十肩になって(笑)。どなたかのブログで「五十肩が再発の兆候だった」という話を読み、心配になって、定期的な診察のほかに予約を取って診てもらいました。結果的にはただの五十肩だったのですが、その時、主治医に「会社を辞めた」と伝えたんです。
すると「肺がんの患者会を作らないか」という提案をしてくれました。