タグリッソ倫理的無償提供の物語

みなさん こんにちは


ずっとやりたかったコーナーが実現しました。医療ライターの福島安紀さんにお願いして書いていただきました。こういうことが行われていること、その裏側の物語、知ってほしいです。そして、これをその時知っていると知らないとでは自分自身の治療に違いが出ることも含めて。



1日も早く患者に新薬を届けたい一心で実現した
アストラゼネカのタグリッソ倫理的無償提供




 今年5月、製薬企業のアストラゼネカが、世界初のEGFR T790M変異陽性・転移性非小細胞肺がん治療薬タグリッソ(一般名・オシメルチニブ)を発売しました。一般的には、新薬が薬事承認されても、薬価が決まるまでの1~2カ月間は薬が販売されず、その間は患者が使うことはできません。しかし、今回、アストラゼネカは、薬事承認を受けた3月後半から薬価が決まった前日の5月24日までの約2カ月間、タグリッソの無償提供を行いました。肺がんに関しては、2012年にファイザーが、世界初のALK阻害薬クリゾチニブ(商品名・ザーコリ)を発売した際にも無償提供を行っています。



タグリッソの無償提供はすでに終了していますが、無償提供が行われた背景とどんな苦労があったのか、同社メディカル本部肺癌領域メディカルサイエンスリエゾンマネジャーの三春賢治さんにインタビューしました。

――最初に、無償提供に踏み切った背景を教えてください。




 タグリッソは、EGFRにT790M変異がある患者さんに対して効果と安全性が認められた世界初のEGFRチロシンキナーゼ阻害薬(EGFR-TKI)です。従来のEGFR-TKIが効かなくなって、T790M変異があることが分かった患者さんが待ち望んでいた薬ではないかと思います。他の臓器に転移のある非小細胞肺がんの患者さんが対象であるだけに、薬事承認から薬価が決まるまでの2カ月間でも、この薬を使えなかったことによって、病状が悪化してしまう人がいるかもしれません。この薬しか選択肢がない患者さんに、とにかく1日でも早くこの画期的な薬を届けたいという会社の方針で、倫理的無償提供を行うことになりました。




――実際には、何人の患者さんが無償提供を受けたのですか。




 2カ月間で290人です。当社が考えていたより、若干少なかったような印象を受けています。倫理的無償提供によってタグリッソの治療が受けられる病院を全国37施設の治験実施医療機関に限定したので、他の病院で治療を受けている患者さんたちには、使いにくい面があったのかもしれません。治験施設以外で治療を受けている患者さんが無償提供を受けるためには、主治医の先生に相談し、タグリッソが使えそうであれば、治験実施医療機関へ行く必要がありました。治験実施医療機関が遠方で行けなかった人もいるかもしれません。この薬を必要としている患者さんがいるすべての病院に無償提供をするわけにはいかなかったのは、私たちとしても歯がゆいところでした。




――無償提供を治験実施医療機関に限定したのはなぜですか。




医薬品医療機器等法に基づく承認は受けているけれども、薬価が決められていない保険収載前の薬については、「保険外併用療養費制度」の利用が認められています。薬価が決まる前にその薬を使う場合には自費診療になるのですが、保険外併用療養費制度を使えば、診療費や入院費など薬代以外には保険が使え、自費診療の部分との併用が可能です。ただ、今回は、薬代を無料にしたので、もしすべての医療機関を対象に薬剤を無償提供すれば、発売後の取引を誘引したとして、公正競争規約に抵触する恐れがありました。そこで、医薬品の販売、情報提供や宣伝等の適正化を図る関係機関と協議し、どうすれば早期の薬剤提供が実現できるかを検討した結果、発売後も引き続きその薬を使用して患者さんの治療にあたるのが自然な流れであると考えられる治験施設に限定することとなりました。



無料にせずに薬代を頂戴するような形にすれば、もっと多くの医療機関で使ってもらえた可能性もありますが、保険外併用療養費制度を使うためには、薬代を適切な価格に設定しなければなりません。タグリッソの場合は、同じような薬がないため適切な価格がいくらなのか分からない状態でした。適切な価格がいくらなのか検討しているうちに1~2カ月経ってしまう恐れもありました。それなら、ある程度提供施設を限定した形であっても、無償提供を一日でも早く開始し、患者さんに薬剤を提供するほうがよいのではないかと考えました。



また、日本人の患者さんも入った国際共同治験で、効果と安全性が確認されているとはいっても、もっと幅広い患者さんに使った場合には、治験では報告されなかったような副作用が出るリスクもあります。タグリッソは、他のEGFR-TKIと同じように、特に間質性肺炎に注意する必要がある薬です。治験実施医療機関であれば、安全対策をしっかりとしていただけることも、倫理的無償提供を治験施設に限定した理由です。




――無償提供を知らない患者さんも多かったようです。宣伝されなかったのはなぜ?




 薬事承認を受けた3月28日に、無償提供の開始を、プレスリリースを通じてお知らせしました。しかし、それ以上に大々的に広報することは、過度の宣伝による取引誘因にあたる可能性がありました。また、万が一、治験医療機関に患者さんが殺到することで混乱を招いたり、安全面での問題が起きたりするようなことになれば、患者さんと医療機関双方にご迷惑をかけることになってしまうため、広報活動は慎重にならざるを得ませんでした。




――大変だったことはありますか。




 当社にとっては、無償提供は初めてだったので、いろいろ分からないことがありました。通常は、薬事承認が下りてから、薬価が決まるまでの間にやる作業もすべて前倒しして、安全対策も含めて、承認が取れたらすぐに動けるような体制を組むのが大変でした。



 また、1日でも早く患者さんたちに薬を届けるにはどうしたらよいのか社内で検討を重ねました。通常は、薬事承認を取得してから薬を梱包して出荷するまでに7~10日くらいかかってしまうのですが、その期間を短くするために、部門横断的な検討を重ねて様々な工夫をこらした結果、最終的には、承認を取得してから48時間以内に出荷することができました。承認を取得したのが3月28日で、30日には工場からこの薬が出荷されたわけです。当社の薬では最速のスピード出荷でした。




――今後も今回のような倫理的無償提供を行いたいですか。




 今後も、タグリッソのような画期的な新薬を開発し、機会があったら、個人的には何度でも倫理的無償提供を実施したいです。2回目以降になれば、今回の経験を生かしてもっとスムーズに対応できると思いますし、何より、1日も早くその薬を使いたい患者さんの役に立つことができると思うからです。




取材を終えて

 製薬企業による倫理的無償提供は、タグリッソのような画期的な新薬が開発された際に行われることがあります。薬事承認取得から薬価が決まる約2カ月間という短い期間であっても、その薬を必要とする患者さんにとって恩恵が大きいと思われます。その情報をいち早く入手するには、担当医に、その薬を使うにはどうしたらよいのか相談しておき、自分でも情報を集めておく必要がありそうです。なぜ、もっと、倫理的無償提供の情報が広報されないのかと思っていましたが、今回、アストラゼネカの三春さんにお話をお聞きし、製薬企業側にも大々的に宣伝できない理由があることが分かりました。


有望な新薬が承認申請されていると知ったとき、チェックしたい情報の一つが、製薬企業のホームページに掲載されるプレスリリースです。新薬が承認されると、各製薬企業はプレスリリースを出します。無償提供がなされる場合には、その情報もそこに載っているはずです。無償提供自体は、頻繁に行われるものではないものの、できたら見逃さないようにしたいものです。肺がんが進行し、心身ともにつらい思いをしているときに自分で情報を入手するのは大変ですが、情報を集めることががんと闘う武器になると、取材を通して改めて実感しました。 



※この記事は公益財団法人正力厚生会の助成金によって作成されました